「あなたは、ひとりで生きているのではありません」― つながりのなかで、生かされている
「あなたは、ひとりで生きているのではありません」― つながりのなかで、生かされている
皆さま、こんにちは。
先日、特派布教の会で、兵庫県・長楽寺のご住職、安達瑞樹老師のご法話を拝聴する機会をいただきました。特派布教とは、その年に曹洞宗の管長猊下が示された「告諭(こくゆ)」という教えの指針を、管長さまに代わって布教師の方が説いてくださる、とても大切なご法話です。
安達老師はもともと落語家さんというご経歴の持ち主で、会場を何度も笑いに包みながら、最後はそっと、心の奥に灯りをともしてくださる――そんな一時間でした。
その日のお話の芯にあったのが、今年(令和八年度)の告諭、「つながりのなかで、生かされている」という言葉です。聞き終えて、どうしても皆さまにお裾分けしたくなりましたので、心に残ったところを、私なりの言葉で綴ってみます。少しだけ長くなりますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。
目次
- ひとりで頑張りすぎていませんか
- 鈴虫が教えてくれた「いのちのつながり」
- 「支えていたつもりが、支えられていた」
- あなたの中にも、人を照らす光があります
- 最後に ― あなたは、ひとりじゃない
ひとりで頑張りすぎていませんか
毎日、お仕事やお家のことに追われていると、気づかないうちに「これもあれも、全部自分でやらなきゃ」と、たくさんのものを一人で背負い込んでしまうことがありますよね。誰にも頼れない、結局自分はひとりなんだ――そんなふうに感じる夜が、もしかしたらあるかもしれません。
安達老師のお話は、そんな私たちに、やさしくこう語りかけてくれるものでした。
いいえ、あなたは、ひとりで生きているのではありませんよ、と。私たちはみんな、数えきれないご縁と、いのちのつながりのなかで、生かされているのです。
そう言われても、頭ではわかっていても、なかなか実感しにくいものです。だからこそ安達老師は、難しい言葉ではなく、温かい二つのお話を通して、それを見せてくださいました。一つは「智慧(ちえ)」の話、もう一つは「慈悲(じひ)」の話です。
鈴虫が教えてくれた「いのちのつながり」
今から二十年ほど前、安達老師がお寺に入られて間もないころのお話だそうです。お寺の隣には、おばあさんが一人で暮らしておられました。一人でお寺を守る老師を気遣って、ある日「和尚さん、一人やと寂しいやろ」と、鈴虫を三十匹も分けてくださったのです。
餌は鰹節に、ときにはうなぎ。畑から採れた茄子。なんとも贅沢な鈴虫です。秋になると、一匹、また一匹と鳴き出して、やがて部屋いっぱいに涼やかな声が響くようになりました。
ところが、です。秋のお彼岸を過ぎたころから、鈴虫が一匹ずつ減っていく。産卵のために、メスがオスを食べ、産み終えたメスもまた食べられて、最後はわずか二匹になってしまったそうです。困り果てた老師が、おばあさんに相談すると、こう教えてくれました。
「般若心経をあげて、ケースを綺麗に掃除して、暗いところに置いておき。来年の五月二日に、表面に水をさっとまいたら、それを合図に卵がかえるんやで」。
言われた通りにして、翌年の五月。すっかり忘れたころにのぞいてみると、ケースの中は、数えきれない小さな命で埋め尽くされていたそうです。あんまり増えたので、近所の小学生の男の子に分けてあげました。するとその子は、その鈴虫を、夏休みの自由研究「鈴虫の一生」にまとめ、学校で見事に大賞をとったというのです。
その自由研究のまとめの最後に、こう書いてあったそうです。
鈴虫は、こうやって命をつないでいるんです。
このひと言に、安達老師は、はっとさせられたといいます。毎日を懸命に生きる小さな鈴虫もまた、仏さまのお姿。そして、その鈴虫をまっすぐに見つめる男の子もまた、仏さまのお姿。大人になった自分には、もう見えなくなっていたものを、子どものまっさらな目が、ちゃんと見ていた――。
ここで安達老師は、お釈迦さまのこんな言葉を紹介してくださいました。
この世の中を、正しく見なさい。実に美しく、綺麗である。しかし、愚かな人はそこに溺れるが、智慧を備えた人は、それにとらわれない。
(『ダンマパダ(法句経)』より)
私たちは、つい目に見える綺麗なもの、華やかなものばかりに気を取られてしまいます。けれど、その裏側には、いつもたくさんのいのちの移り変わりと、つながりがあるのですね。
「智慧」というのは、難しい知識のことではありません。私たちは、かけがえのないご縁といのちのつながりのなかで、生かされている――そのことに、心の底から気づく力のことなのだと、安達老師は教えてくださいました。
「支えていたつもりが、支えられていた」
もう一つは、「慈悲」のお話です。
東日本大震災のあと、全国の若いお坊さんたちが、お茶とお菓子を持って、避難所や仮設住宅をまわり、ただひたすらに、皆さんのお話に耳を傾ける活動を続けてきました。安達老師も、その一人です。
やがて、皆さんが避難所から仮設住宅へ移られると、今度はお部屋からなかなか出てこられない方が出てきます。体の不自由な方もいれば、津波で大切な人を亡くされ、お部屋から出る気力をなくしておられる方もいた。そうした方々をどう支えられるだろうと考えて、お坊さんたちが思いついたのが、「文通」でした。これなら、お部屋にいながらできます。
このとき安達老師がお願いしたのが、兵庫県・尼崎で一人暮らしをされていた、当時七十五歳のヨウコさんという女性でした。五年前にご主人を亡くし、お子さんもなく、ひとりで暮らしておられた方です。文通のお相手は、宮城県の仮設住宅で、ご主人を津波で亡くし、やはりひとりで暮らす、七十歳の女性でした。

女性同士、すっかり意気投合され、手紙のやりとりはどんどん深まっていきました。ある日、尼崎のヨウコさんが、こう言われたそうです。「死ぬまでに一度でいいから、この方に会ってみたい」。それなら、と安達老師も付き添って、はるばる宮城まで会いに行くことになりました。
仮設住宅の、同じような建物が並ぶずっと向こうから、お相手の女性が、それはもう必死に手を振りながら、こちらへ走ってきてくださったそうです。「まさか、こんな遠いところまで来てくださるとは思いませんでした」と、涙、涙の対面でした。
その後、ヨウコさんが安達老師に、こんなことを打ち明けられたといいます。
私は、東北の人を支えてあげたいと思って、一生懸命に手紙を書いていました。でも、本当に支えてもらっていたのは、私の方だったんです。
ご主人を亡くし、「毎日寂しいだけ、もうお迎えが来てくれないか」とさえ思っていたヨウコさん。けれど、自分よりも寂しい思いをしている人がいる、何かできることはないかと、文通に一生懸命になるうちに、いつのまにか、ご自分が支えられ、励まされていた――。
安達老師は、こうおっしゃいました。「支える、支え合う、誰かとつながるということは、こういうことなんやな、と、私はこのヨウコさんに教えてもらいました」と。
慈悲というのは、立派な誰かが、上から一方的に手を差しのべることではないのですね。支え合っているうちに、気づけば自分も支えられている。その温かい循環そのものが、慈悲なのかもしれません。
あなたの中にも、人を照らす光があります
安達老師が最後に紹介してくださったのが、曹洞宗をお開きになった道元禅師の、こんな言葉でした。
光明(こうみょう)というは、人々(にんにん)なり。
(道元禅師『正法眼蔵』光明)
「光とは、ほかの誰でもない、一人ひとりのことなのだ」という意味です。
ここでいう「光」とは、これまでお話ししてきた、智慧と慈悲の光のこと。この光は、お釈迦さまだけが特別に放つものではありません。私たち一人ひとりが、もともと、ちゃんと具えているものなのです。そして、その光を放つか放たないかは、「あなた次第ですよ」と、道元禅師は示してくださっている――そう老師は語りかけてくださいました。
辛いニュースばかりが続く毎日に、自分なんかに何ができるだろうと、無力に感じてしまうこともありますよね。そんなときこそ、まずはほんの少しだけ、静かに座る時間を持ってみてください。何も考えず、ゆっくりと息を整え、姿勢を正して。
そうして整えた心で、目の前の人の苦しみを、我がことのように受け止めてみる。それはきっと、私たちの誰にでもできることだと思うのです。なぜなら私たちは、これまで数えきれないご縁に支えられて、今、ここにいるのですから。
最後に ― あなたは、ひとりじゃない
安達老師は、永六輔さんの「生きているということは」という詩で、お話を締めくくられました。
人が生きるということは 誰かに借りがあるということ
人が生きるということは その借りを返しながら行くということ
誰かが私にしてくれたように 誰かにしてあげよう
(永六輔「生きているということは」より)
そして、この詩はこう続きます。「人は一人では生きていけない。さらに、一人では歩いていけない」と。
私たちは、ひとりで生きているのではありません。数えきれないご縁と、いのちのつながりのなかで、生かされているのです。
もし今、ひとりだと感じておられる方がいらしたら、どうか、ご縁を頼ってください。一人で抱え込まなくて、いいのです。そして、いただいたご縁を、今度はあなたから、周りの大切な方へ。その小さなつながりが、また誰かの笑顔へと広がっていきます。
今日、もしよろしければ、ご家族やご先祖さま、心に浮かぶ大切な方を思い浮かべて、そっと手を合わせてみてください。その一つの行いが、つながりのなかであなたの放つ、確かな光になるはずです。
安達瑞樹老師、温かいお話を、本当にありがとうございました。
合掌

