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道元禅師の、そのまた師へ——天童如浄禅師の八百回忌に学ぶ

先日、曹洞宗栃木宗務所の現職研修会に出席してきました。私たち現職の僧侶が、教えを学び直すために集まる会です。

その日の講題は「天童如浄禅師(てんどう・にょじょうぜんじ)の伝記と教え」。正直に言うと、はじめは少し身構えていました。名前は知っている。でも、その生涯や人となりを、自分の言葉で説明できるかと問われると、あやふやなのです。

如浄禅師は、私たちの宗祖・道元禅師が中国(宋)へ渡って出会い、教えを受けた師にあたります。いわば「道元禅師の、そのまた師」。そして今年、令和8年(2026年)は、その如浄禅師の八百回忌にあたる、大きな節目の年なのだそうです。あと二週間ほどで、ちょうど命日を迎えます。

八百年前の中国の一人のお坊さんが、なぜ今の私たちにまで関わってくるのか。今日はその学びを、少しだけおすそわけできればと思います。

宋代の禅寺、山あいに佇む静かな伽藍
八百年前、宋のこうした禅寺で、如浄禅師はひたすら坐っていました。

八百年前の命日が、今年ぴったり巡ってくる

まず驚いたのが、この「八百回忌」という数え方の重みです。

如浄禅師の生まれと亡くなった年は、長いあいだはっきりしていませんでした。中国では、道元禅師が留学された1220年代、五山(ござん/宋で最高の格式を持つ五つの官寺)の住職はほとんどが臨済宗の僧で、曹洞宗をはじめ他派の記録は多く残らなかったのです。道元禅師ご自身も「見在(げんざい)大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」(『弁道話』)と述懐されています。

如浄禅師の没年も、古い伝承では1229年、1228年など諸説がありました。それを一年繰り上げて「1227年」と突き止めたのが、佐藤秀孝先生のご研究です。如浄禅師が亡くなる間際に交流のあった禅僧へ送った「遺書」の年代を、他の僧の記録から丁寧にたどって、遷化を宝慶三年(1227年)と確定されました。さらに遺言の中の「六十六年」という一句から、生没年は1162年〜1227年と定まったのです。

ここが私には、じわりと効きました。ほんの数年ずれていたら、道元禅師が如浄禅師のもとで学ぶ時間はなかったかもしれない。道元禅師が渡宋して如浄禅師に出会えたのは、如浄禅師が亡くなるほんの二年ほど前のこと。しかも如浄禅師は、その師である雪竇智鑑禅師とは実に三十八歳も年が離れた、晩年の弟子でした。同じように道元禅師もまた、如浄禅師晩年の弟子だったのです。師から弟子へ、いつも「ぎりぎりの晩年」でバトンが渡されている。そのことに、不思議な巡り合わせを感じました。

面白いのは、インターネットで調べると、今でも如浄禅師の没年が「1228年」と出てくることが多いのだそうです。研究で1227年に改められて三十五年以上たつのに、まだ古い数字が残っている。だからこそ「今年が八百回忌なのだ」と、しっかり覚えておきたいと思いました。正しい年を突き止める、という一見地味な研究の積み重ねが、「私たちの坐禅は、確かにあの師から伝わってきた」という確信を支えている。八百回忌がちょうど今年に重なるのも、その積み重ねがあってこそなのだと、あらためて頭が下がりました。

「汚れていないところを、どうやって清めるのか」

如浄禅師の教えの核心にあるのが、只管打坐(しかんたざ)——ただひたすらに坐る、という禅のあり方です。ここへたどり着くまでの、忘れられない問答を教わりました。

如浄禅師は各地を行脚したのち、曹洞宗の法を伝えていた雪竇智鑑禅師(せっちょうちかんぜんじ)のもとに入ります。ある日、如浄禅師がお手洗い掃除の係(浄頭/じんじゅ)を願い出たとき、師の智鑑禅師が、その名前「浄(きよめる)」にかけて、こう問いかけたと伝わります。

浄子、曾て染汚(ぜんな)せざる処、如何(いか)が浄得(じょうとく)せん。 ——瑩山禅師『伝光録』第五十祖章

「もともと汚れていないところを、お前はどうやって清めるつもりか」。禅問答らしい、ひとひねりある問いです。如浄禅師はすぐには答えられず、一年あまりも坐禅に打ち込みます。そしてある日、はっと悟って、こう答えたといいます。

不染汚(ふぜんな)の処を打(だ)す。

「汚れていないところを、そのまま行ずる(生き抜く)のです」——師はその言葉が終わらぬうちに如浄禅師を打ち、如浄禅師は汗を流して礼拝した。それを見て、師はようやく認めた、と。

私はここで足が止まりました。汚れていないなら、清める必要などない、と考えるのが理屈です。けれど禅は、そこを一歩ふみ込む。「もともと清らかだからこそ、清らかなまま、ただ行じつづける」。

この「不染汚(ふぜんな)」という言葉は、もとをたどれば、中国禅宗の六祖・慧能(えのう)と、その弟子・南嶽懐讓(なんがくえじょう)の間で交わされた問答に行き着きます。「修行や悟りは無いわけではない。ただ、それを汚してはならない」——そう答えた弟子に、六祖は「まさにその汚れなさこそ、仏がたが大切に守るところだ」と応じたと伝わります。この教えが、やがて道元禅師が重んじられる不染汚の修証(しゅしょう)——修行と悟りは別物ではなく、一つに溶け合っていて、決して汚してはならないという教え——にまっすぐつながっていきます。八百年、いや千年をこえて、同じ一本の糸がつながっているのだと知って、静かな感動がありました。

坐禅は、何かを手に入れるための手段ではない。坐っているそのすがた自体が、すでに悟りのあらわれなのだ。この順序が、私にはとても腑に落ちました。

早朝の禅堂に差し込む光と、静けさに満ちた坐禅の場
「汚れていないところを、そのまま行ずる」。ただ坐ることの深さを教わりました。

「ただ坐るだけの、堅物のお坊さん」ではなかった

もう一つ、この研修でイメージが大きく変わったことがあります。

如浄禅師というと、権力に近づかず、一生涯、色のついた華やかな袈裟を着けず、黒い衣で通した——そんな「枯淡(こたん)な禅僧」の像が伝わっています。実際、道元禅師も『正法眼蔵』の「行持(ぎょうじ)」の巻で、皇族から上堂のお礼にと莫大な布施を差し出されても、如浄禅師がきっぱり断った逸話を伝えています。夜遅くから明け方まで坐りつづけ、眠ってしまう僧を起こして回るほど、修行には厳しい方でした。

けれど、それだけの人ではなかったのです。

宋の中宮(皇后)から布施を受けて法要を営んだり、その誕生日を祝う説法では、仏教だけでなく道教の言葉まで引いて言祝(ことほ)いだり。四川から来て、母の手紙を理由に故郷へ帰る修行僧を、批判するどころか、その親を思う気持ちに寄り添う偈(うた/詩)を贈ったりもしています。

講師の先生が繰り返しておられたのは、「ただ坐るだけの堅物、という一面だけで如浄禅師を捉えると、本質を見誤る」ということでした。五山の一つ・天童山の住職まで務めた人物にふさわしい、懐の深さとバランスがあった。私はそこに、かえって深く惹かれました。

そして、弟子への向き合い方にも、思いがけない一面がありました。道元禅師が「僧堂の椅子で足袋(たび)を履くとき、聖僧(しょうそう)さまへの無礼にならぬよう、袖で足を隠しながら履くのですよ」——そんな細やかな作法まで、如浄禅師は懇切に教えてくれたと記録に残っています。厳しさの奥に、こういう丁寧さがある。指導者として、はっとさせられる話でした。

むすび——伝わってきた、ということ

道元禅師は、如浄禅師のもとで学んだ日々を振り返って、こう遺しておられます。

まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。 ——道元禅師『正法眼蔵』「行持(下)」巻

「まのあたりに師にお会いできた。これこそが、本当に人に出会うということだ」。晩年の師と、渡宋してきた若き弟子。ぎりぎりのタイミングで結ばれたその出会いが、如浄禅師の只管打坐を、道元禅師が永平寺という道場でかたちにし、八百年をこえて今の私たちの坐禅にまで届いている。

八百回忌というと、遠い昔の一区切りのように聞こえます。けれど学び直してみると、それは「遠い人」の話ではありませんでした。今日、私が坐蒲(ざふ)の上に坐るその一息が、あの日、宋の禅堂で汗を流して坐っていた一人の師と、確かにつながっている。そう思うと、いつもの坐禅が、少し違って感じられます。

節目の年に、道元禅師の師をたどり直せたことを、ありがたく思います。まずは私自身が、坐ることの原点を忘れずにいたい。そんなことを、静かに考えさせられた一日でした。

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