怒ってしまう自分を責めるお母さんへ ─「観」と諸法無我からの小さな救い

「ああ、また怒鳴ってしまったな」
「どうして私って、いつもこうなんだろう」
「もっと優しくしてあげたかったのに」
──お子さんを叱った後、ご自身を責めてしまった夜は、ありませんか。
主に お母さん に向けて書いていますが、お父さんも、おじいちゃま・おばあちゃまも、保育の現場で子どもと向き合う方も、もう子育てが終わって「あの頃の私は……」と思い出すことのある方も、どうぞ自分に重ねながら読んでみてください。
今日いちばんお伝えしたいのは、この一文です。
怒ってしまったあなたは、悪い親ではありません。
怒ってしまった自分にそっと気づけた、その瞬間──
そこにはもう、仏さまの心が、ちゃんとはたらいているんですよ。
詳しくは、最後にもう一度お話しします。
それまでの間、心をすこしふわっと軽くするヒントを、一緒に探していきましょう。
夜の布団で「私はダメな母親だ」とつぶやいてしまうあなたへ
日々の暮らしは、本当に忙しいですよね。
仕事に、家事に、子育て。やることが山積みのなかで、自分の時間なんてほとんどない。そんな状況で、心に余裕がなくなってしまうのは、誰にでもあること。
朝、保育園の出発時間が迫っているのに、子どもは靴下と格闘している。
夕方、お風呂上がりに「歯磨きするよ」と声をかけても、五分経ってもまだ遊んでいる。
ようやく寝かしつけて、ホッとした瞬間に、「お水……」と呼ばれる。
「もう、いい加減にして!」と、つい大きな声を出してしまう。
そしてその夜、布団の中で、
「今日も、また怒鳴っちゃった」
「私はダメな母親だ」
「もっと冷静に対応できたはずなのに」
そう自分を責め続けてしまう──。
こうしたお話を、私はこれまで本当にたくさん伺ってきました。
実は私、お坊さんになる前、そして今もお坊さんと並行して、認定こども園で働いています。玉川大学の教育学部に入り直して、保育士と幼稚園教諭の資格を取り、令和6年度から1年半ほど、4歳児クラスと2歳児クラスの担任を務めました。
たくさんの子どもたちと、たくさんのお母さん・お父さんたちと、本当に近い距離でご一緒させてもらって、皆さん自身から、多くのことを学ばせてもらいました。
その経験を踏まえて、今日は「怒ってしまう自分を責めるお母さん」のために、曹洞宗の教えから、心をすこし楽にするヒントをお話しします。
キーワードは、 「観(かん)」 と、 「諸法無我(しょほうむが)」 。
難しそうな言葉に見えますが、お伝えしたいことはとてもシンプルです。

正直にお話ししますね。
私は、担任をしていた1年半、子どもを「怒鳴った」ことは、一度もなかったのです。
──と、こう書くと、「ほら、やっぱり先生はそうなんだ」「私はやっぱりダメだ」と、ちょっとモヤッとされる方がいるかもしれません。
でも、これは私が立派だから、ではないんです。
保育という仕事は、夕方になったら家に帰れる仕事 です。担任のクラスはとても大切な存在ですが、夜泣きで起こされることも、夜中の発熱に付き合うこともありません。
365日24時間、子どもと向き合うお母さん・お父さんとは、まったく条件が違うのです。
ですから、「怒鳴ってしまったあなたが悪い」というお話を、するつもりはまったくありません。
私が「怒鳴らなかった」ことを、自慢したいのでも、もちろんありません。
ただ、「怒鳴る代わりに、私は何をしていたか」というところに、今日のテーマ 「観(かん)」 のヒントがそのまま出ているなと思って、入り口に置いています。
譲らずに諭した、二つの場面
担任の間、これだけは真剣に向き合ったという場面が、二つだけありました。
ひとつは、 友達関係 のこと。
年中さんになると、ちょっと「お兄さん・お姉さん」になってきます。そんな時期に、子どもたちの中で「自分はこの子より上だ」というような態度がふっと見えることがあります。
自分がこぼした給食を、隣の子に「ねえ、〇〇くん、拾って」と拾わせようとする。
要領のいい子が、まだうまくできない子に、ぞんざいな言い方をする。
そういう瞬間を、私は見過ごせなかったのです。
「ちょっとこっち来て」と呼んで、目線を合わせて、「いまのはね、ちがうよ。あなたが先生に拾ってもらいたい時に、〇〇くんに『拾え』って言われたら、どんな気持ちになる?」と、ゆっくり聞く。
もうひとつが、 食べ物 のこと。
わざと床に落とす、わざとこぼす──という時には、「この食べ物がね、今ここにあるまでに、何人の人が関わっていると思う?」と話して、命をいただいている感覚を、一緒に確かめました。
嫌いなものを残すこと自体は、私は責めません。
でも「わざと粗末にする」のは、別の話。ここは譲りませんでした。
「観る」とは、もう一人の自分が立ち会うこと
ここで、皆さんにお伝えしたいことがあります。
私が大事にしていたのは、「怒鳴らないこと」ではなく、
怒鳴る前に、ちゃんと観る
ということ、なのです。
子どもが何かをした瞬間に、すぐ反応するのではなく、「今、この子はどんな気持ちだったんだろう」「どんな背景があったんだろう」と、いったん自分の心の中で観てみる。その上で「ここは譲れない」と思ったら、真剣に諭す。
これは、感情を消すことではありません。
私だって、お皿が床に叩きつけられたら、最初の0.5秒は「うわっ」ときます。
ただ、その「うわっ」を、もう一人の自分が、ちゃんと観ている。「あ、いま自分はカチンと来たな」と気づいているのです。気づけているから、怒鳴らずに、諭せる。
これが、今日お伝えしたい 「観(かん)」 という修行の、入り口なのです。
道元禅師「自己をならふといふは、自己をわするるなり」
ここで少し、道元禅師(どうげんぜんじ)のお言葉を一つ、ご紹介させてください。私たち曹洞宗の宗祖、鎌倉時代の禅僧です。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(『正法眼蔵』「現成公案」より)
少し難しく聞こえるかもしれませんね。
要するに、仏道を学ぶというのは、自分自身のことを深く知っていく営みであり、その先には、「自分への強いこだわりを、そっと手放していく」道がある、ということなのです。
生活の言葉に翻訳すると、たとえば──夜、布団に入って、「また怒っちゃった」「私はダメだ」「私はダメだ」と、頭の中で何十回もリプレイしてしまう、あの時間。
あれを、いったんそこで止めること。
道元禅師の「自己をわするる」とは、そういう、自分への強いダメ出しを、そっと置いてみる時間のことだと、私は思っています。
曹洞宗で大切にしている修行に、 「只管打坐(しかんたざ)」 というものがあります。「ただ、ひたすらに、坐禅を組む」と書きます。
ここに、曹洞宗らしい考え方があるのです。
坐ることで何かを得よう、悟ろう、というのではなく、ただ坐っていること、そのこと自体が、すでに仏さまの行いなのだ 、という見方。
道元禅師は『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』というお書物の中で、 「非思量(ひしりょう)」 という言葉も遺されました。
「考えないようにしよう」とすることでも、「考えに飲み込まれる」ことでもなく、浮かんできたものに、巻き込まれずに、ただ坐っている──という心構えです。
坐禅をしていると、本当にいろんなものが浮かんできます。
「今日の夕飯、何にしよう」「あの人との会話、ちょっと気になるな」、あるいは「どうして私、こんなに怒りっぽいんだろう」というネガティブな感情も、たくさん。
でも、その感情を、私たちは「消そう」とはしません。ただ、浮かんできた感情を、「ああ、いま、自分はこんなことを考えているな」と、もう一人の自分が、ただ眺めている。
これが、 ただ観る ということなのです。
怒りも、自己嫌悪も、同じように観ることができます。
「ああ、いま、私は怒っているな」
「ああ、いま、私は自分を責めているな」
そう気づけた瞬間、あなたはもう、その怒りや自己嫌悪に、完全には飲み込まれていません。

担任になりたての頃、私は本当に悩みました。「どうしたらいいんだろう」と、隣のクラスの先生に毎日のように相談していました。
そんな時に、ある先輩が、こう言ったのです。
「もう、毎日が実験だよ。20人いたら、20通りの考え方があるんだから」
この言葉に、私はとても救われました。
そう、20人いたら20通り。「これが正解」なんて、最初からどこにもない。
ただ、たまーに、ふっと子どもたちの気持ちが揃って、クラス全体がスッと動く瞬間がある。あれは本当に、奇跡みたいに嬉しかった。
これは、お母さん・お父さんにも、まるごとお伝えしたいことです。
自分を責めても、しょうがないんです。
今日のやり方が、たまたま噛み合わなかっただけ。
明日また、別のやり方を、試せばいい。
そして、選んだやり方が間違っていてもいい。
「今日はこれ、ダメだったな。じゃあ明日、別のやり方を試してみよう」──それで、いいのです。
それから、これも大切なこと。
子どもって、何があっても、親のことが好きなんですよね。
これは本当に、揺らがない事実です。怒鳴られても、その瞬間は親の注意が自分に向くからこそ、子どもはその「悪い行動」を、ある意味、繰り返したりもします。
「だから怒鳴るな」というお話ではなく、「だから、自分を責めすぎなくていい」ということ。子どもとの関係は、毎日少しずつ、やり直せます。
「観」と「諸法無我」を、今夜の自分にどう使うか
ここで、「観」という言葉を、もう一段やさしくほどいてみますね。
怒ってしまった、その瞬間に。あるいは、怒りから少し時間が経って落ち着いた時に。
「ああ、いま、私は怒っているな」
「ああ、いま、私は自分を責めているな」
そう気づくこと。
それが、「観る」ということの、第一歩です。
もう一つ、大切な教えが 「諸法無我(しょほうむが)」 。
昔の言葉ですが、今の私たちにもそのまま当てはまります。一言で言うと、 「世の中のあらゆるものには、固定された実体がない」 という教えです。
「怒っている私」というのも、実は固定された実体ではありません。
それは、疲れ、寝不足、生理前のしんどさ、子どもの行動、季節、天気──本当にいろんな 縁(えん) が、たまたま今この瞬間に結びついて、現れているもの。
だから、「私は怒りっぽい人間だ」と、怒っている自分を決めつけてしまう必要はないのです。昨日のあなたと、今日のあなたと、明日のあなたは、ちゃんと違うのですから。
「怒っている自分」を「観ている自分」が、そこにいる。
そのこと自体が、もうあなたが、その怒りに完全には飲み込まれていない、という証拠なんですね。
では、日常の中で、これをどう実践していけばいいでしょうか。
特別な時間を作る必要はありません。たとえば、お子さんを怒ってしまった夜。お布団に入って、ふと「ああ、また怒っちゃったな」と思った瞬間。
その感情を、無理に打ち消そうとしなくて大丈夫です。
「ああ、いま、私は自分を責めているな」と、ただ、心の中でつぶやいてみる。そして、ご自身の呼吸に、そっと意識を向けてみてください。
息を吸って、息を吐いて。一回、二回、三回。それだけで、すこしずつ、心が落ち着いてくるのを感じられるはずです。
それが、あなたの心の中でできる、立派な「只管打坐」です。
完璧な親を、目指さなくていい。その「怒ってしまった自分」に気づき、「ただ観る」という、小さな実践を、ほんの少しだけしてみる。
それが、心の平安への、第一歩になります。
最後に──今夜のあなたへ
今日いちばんお伝えしたかったのは、冒頭にもお話しした、この一文です。
怒ってしまったあなたは、悪い親ではありません。
怒ってしまった自分にそっと気づけた、その瞬間──
そこにはもう、仏さまの心が、ちゃんとはたらいているんですよ。
完璧な子育てなんて、どこにもありません。
子育ては、喜びも、怒りも、悲しみも、苦しみも、ぜんぶ詰まった道のりです。
大切なのは、「怒り」という感情そのものを否定することではなく、その「怒っている自分」に気づき、もう一人の自分が「ただ観る」こと。
観ることができれば、怒りも自己嫌悪も、やがては「諸法無我」、いまこの瞬間だけの一時的な心の状態なのだと気づけます。
そしてその気づきこそが、道元禅師がおっしゃる「自己をわするる」──自分への強いこだわりを、そっと手放していく道へとつながっていきます。
どうぞ、今日この記事を読み終えた後、お子さんの寝顔をご覧になる時でも、お風呂につかる時でも構いません。
ほんの数秒だけ、ご自身の呼吸に意識を向けてみてください。
そして、心の中で、「ああ、今日も一日、頑張ったな」と、自分を労ってあげてください。
その小さな「気づき」が、あなた自身の人生を豊かにする「坐禅」になっていきます。
合掌。
この記事は、YouTubeチャンネル「玲音和尚のふだんの禅」の法話「怒ってしまう自分を責めるお母さんへ ─「観る」と諸法無我のお話」を、ブログ用にやさしくリライトしたものです。動画版はこちらからご覧いただけます。