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「一個下ろすほうが、ずっと軽い」── SNS疲れと『放下著』の禅

夜の静かな部屋で、スマホをそっと脇に置いた手元のショット。月明かりが差し込み、湯のみと畳の余白が見える。SNS疲れの夜に『ひとつ下ろす』雰囲気を象徴。

「あの人は海外旅行、私は今日もコンビニ弁当」
「あの人の子は楽器の発表会、うちの子は今日も宿題でケンカ」

──SNSのタイムラインを眺めながら、ふっとそんな気持ちになる夜は、ありませんか。

今日いちばんお伝えしたいのは、この一文です。

持ってるものを増やさないより、一個下ろすほうが、ずっと軽い。

中国の趙州和尚(じょうしゅうおしょう)という禅僧が残した、たった四文字の公案 「放下著(ほうげじゃく)」 に、SNS疲れの現代を生きる私たちへのヒントが、そのまま入っているのです。

詳しくは、最後にもう一度お話しします。
それまでの間、肩の力をすっと抜くヒントを、一緒に確かめていきましょう。

SNSを開くと、心がざわっとする夜に

正直に書きますね。お坊さんになった今でも、私はSNSを開いて、心が「ざわっ」とする日があります。
だから、今日は「お坊さんの偉そうな話」をするつもりは、まったくありません。私自身が、まだ手探りで向き合っている話、として読んでみてください。

SNSを使っていない方も、どうぞ自分に重ねてみてください。
ご家族がスマホばかり見ているのを見て、ちょっと寂しく感じたこと。
ご近所さんやご親戚と、自分の暮らしを、つい比べてしまったこと。
そういう経験なら、きっと多くの方にあるのではないでしょうか。

なぜ、私たちは他人の投稿を見て疲れてしまうのか。
理由は、はっきりしています。
SNSに並ぶのは、楽しかったこと、おいしかったもの、素敵な場所、嬉しかった出来事──その人の「いちばん良い瞬間」だけです。
朝起きて鏡を見たときの自分の顔は、誰も投稿しません。仕事で叱られて落ち込んだ夜のことも、なかなか投稿しないのです。

それを毎日浴び続けていると、知らないうちに、他人の「ベストの瞬間」と、自分の「ふつうの一日」を比べてしまう。
そうやって、自分の日常が、どんどん小さく見えてきてしまうのですね。

「比べてしまう心」の正体──仏教でいう「我執」

仏教では、この「比べてしまう心」の根っこを 「我執(がしゅう)」 と呼びます。
噛み砕いていうと、こういうことです。

「私はこうあるべきだ」
「私はもっとできるはずだ」

そうやって「私」というものに、ぎゅっとしがみついている心。
それが我執なのです。

ぎゅっと握っているから、他人と並べたときに、ちょっと足りないと苦しくなる。
ぎゅっと握っているから、欠けたところばかりが目に入ってしまう。
これは、別に「弱い人」だから起きることではありません。人間の心の、ごく自然な働きなのですね。

では、その握りしめた手を、どうしたら少しだけゆるめられるのか。
そのヒントが、禅の世界で何百年も大切にされてきた、たった四文字の言葉にあるのです。

中国の唐の時代の禅僧、趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が残した、

放下著(ほうげじゃく)

という公案(こうあん)です。
公案というのは、禅の修行で使われる、答えのない問いのようなもの。
この四文字に、SNS疲れの現代人にも効く、大きなヒントが隠れているのです。

趙州和尚と『放下著』──握りしめた手を、ひとつだけ下ろす

紙束(ランキング表のような書類)を、両手でぎゅっと握りしめている手元の俯瞰。背景はオフィスの机ではなく、ややぼかした抽象的な構図。手の力みと『握りしめている』感を象徴。### コンサル時代に握りしめていた、35人の順位

ここで、少し私自身の話をさせてください。

お坊さんになる前、私はある時期、コンサルティング会社で働いていました。
入社後、1ヶ月の研修があり、同期は35人。新卒の方も、私のような転職組も、一緒くたで始まりました。

その研修中、毎週のように「ランキング」が出るのです。
エクセルのスキル、ショートカットの早さ、論理的思考のテスト、プログラミング、コミュニケーション力──そういったものを多角的に点数化されて、35人の中で順位がつく。そして最終的に、その順位で最初の配属案件が決まる、という仕組みでした。

当時、人気だったのは「戦略コンサル」と呼ばれる案件で、単価も高く、華やかな仕事と言われていました。そこに入るには、かなり上位を取らなければいけない。だから、もう必死でした。
同期は仲間のはずなのに、毎週の順位だけが、世界のすべてに見えてくる。
寝る前もエクセルのショートカットを練習して、朝起きた瞬間から、頭の中で次の課題の点数を計算していました。

最終的に、私は35人中4位でした。
4位。自分としては「これで戦略の案件に入れるな」と、けっこう確信していたのです。

ところが、配属の発表を見ると、私が割り当てられたのは、ある保険会社の業務改善プロジェクトでした。
華やかな戦略案件ではなく、地味な現場の改善のお仕事です。
しかも、同期の中に、私より順位が下の方が、堂々と戦略案件に入っている。
それを見た瞬間、私の中で何かが、ぐらっと崩れる音がしました。

「なんで自分が、あの子より上なのに、こっちの案件なんだ」。

そのひと言が、ずっとぐるぐる回り続けて、しばらくは、本気で不満を引きずっていたのです。

「これじゃあ、お客さんに失礼だ」

でも、ある時ふと、気が付きました。
私はその「ランキング」と「配属の比較」を、両手でぎゅっと握りしめたまま、目の前のお客さんに向き合っていたのです。

「これじゃあ、お客さんに失礼だな」──急に恥ずかしくなりまして、握っていたランキングを、いったん下に置いてみたのですね。

そうしたら、不思議なことに、今まで「地味」だと思っていた保険会社の現場が、急に違って見えてきました。担当の方たちが、本当に丁寧に仕事を教えてくださって。
結局、その保険会社さんには1年半、お世話になりました。業務改善だけでなく、新商品の開発、プロジェクトマネジメント、ファイナンスのプロセス構築まで、本当に色々な仕事をさせていただいて。最初に入ったセクションを離れて、別の部署からもお声がけいただくようになって。
振り返ってみると、コンサルとしての総合的なスキルは、あの保険会社さんで身についたのです。

順位を握りしめていた頃の私は、ランキングの数字しか見えていませんでした。
それをいったん下ろした瞬間、目の前のお客さんの顔が、ようやく見えてきた。

心の重さって、外から押されるものではないんですね。
自分で握ったまま、自分の心を、自分で押し潰している。

あのとき、そのことを、身体で覚えました。

趙州和尚と若い僧の問答

そういう経験を、後で思い返すたびに重ねていた言葉が、趙州和尚の 「放下著(ほうげじゃく)」 だったのです。
こんな話なのですよ。

あるとき、趙州和尚のところに、一人の若いお坊さんが訪ねてきました。
このお坊さん、たくさんのお経を読んで、難しい教えもよく勉強していたそうです。
「これだけ学んできました。どうぞ見てください」、そんな気持ちだったと思います。

ところが、和尚はその学びを聞こうともせず、ただ一言、こう言いました。

「放下著(ほうげじゃく)」
──持っているものを、放(はな)して、下(お)ろしなさい。

若いお坊さんは、戸惑って答えました。
「いえ、私はもう、何も持っていません」。全部差し出すつもりで来ました、ということですね。

すると、趙州和尚は、もう一度、静かにこう言ったそうです。

「ならば、その『何も持っていない』という思いも、放下著(ほうげじゃく)しなさい」。

この話を初めて聞いたとき、私は正直、最初は意味が分かりませんでした。
でも、コンサル時代の自分を思い返して、はっとしたのです。
あの頃、私が握りしめていたのは、別にお金でもキャリアでもなかった。

「同期に負けたくない」という思い。
「もっと評価されるべきだ」という思い。

そういう、目に見えない「思い」を、たくさん握りしめていた。
そして、その思いの重さで、自分の心を、自分で押し潰していたのですね。

趙州和尚は、こう教えてくれているのです。
私たちが「持っている」のは、家や車だけではない。

「こうあるべき」という理想。
「あの人に比べて私は」という比較。
「もっと、もっと」という欲。

頭の中にある、目に見えない「思い」こそ、いちばん心を重くしている荷物なんだよ、と。
そして、その荷物を、いったん下に置いてみなさい、と。

持ってるものを増やさないより、一個下ろすほうが、ずっと軽い。

保育の砂場で出会った、3歳の禅

認定こども園の砂場で、3歳の男の子が一心に穴を掘っている。隣でままごとをしている子の存在は背景にぼんやり。『比べていない』無心さを表現。やわらかい春の光。ここで、もう一つだけ、お話しさせてください。

私は今、お寺の仕事と並行して、保育教諭としても勤めています。
うちのお寺と一緒に運営している、認定こども園です。3歳、4歳の子どもたちと過ごす時間が、私にはとても大事な学びの場なのですね。

ある日、砂場で穴を掘っている男の子がいました。
となりでは、女の子が大きな葉っぱをお皿に見立てて、ままごとをしていました。
その男の子に、私は試しに聞いてみたのです。

「あっちのおままごと、楽しそうじゃない?」

そうしたら、その子、不思議そうな顔をして、ひとこと。

「ぼく、今、穴掘ってるから」。

それだけだったのです。

私はその瞬間、なんだか心が震えてしまいました。
3歳の子は、隣の子と「比べていない」のですね。
「あの子のほうが楽しそう」なんて、考えてもいない。
「今、穴掘ってる」、それだけ。
今、目の前にあるものだけで、もう十分なのです。

「比べる」というのは、職場の話だけではありません。
年賀状に並ぶ、よそのご家族の笑顔。
同窓会で聞こえてくる、誰かのお孫さんの自慢。
健康診断の数値ですら、いつのまにか誰かと比べてしまう。
「比べる癖」は、年齢を重ねても、形を変えてずっと私たちについてきます。

そう、「比べる」というのは、実は大人になってから少しずつ身につけてきた、後付けの習性なのだと、あの瞬間、強く思いました。
私たちは生まれた時から、誰かと自分を比べていたわけではない。
どこかで、たくさんの「べき」と「もっと」を、知らないうちに背負ってきただけなのですね。

だとしたら、それを下ろすことだって、できるはずなのです。

ふだんの暮らしで「放下著」を試す、30秒

朝、台所でドリップコーヒーを淹れている手元。湯気が立ち上り、豆の香りを象徴する余白。『30秒、目の前のひとつのこと』のミニマルな構図。「とは言っても、急に全部下ろすなんて無理ですよ」。
そう感じる方も、いらっしゃると思います。本当にその通りなのです。

ですから、放下著(ほうげじゃく)の実践は、ものすごく小さくていい。

曹洞宗には、 「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」 という言葉があります。
歩くときも、立ち止まるときも、坐るときも、横になるときも、その一つひとつが、そのまま仏さまの道である、という意味です。
お寺の特別な場所でなくても、台所でも、通勤電車でも、ぜんぶ修行の場なのですね。

たとえば、朝、コーヒーを淹れる時。
ただ漫然と淹れるのではなく──

  • お湯の沸く音だけに、耳を澄ませてみる
  • 豆の香りだけを、深く吸い込んでみる
  • カップの温かさを、指先だけで感じてみる

たった30秒、目の前のひとつのことだけに、心を置いてみる。
その30秒のあいだ、SNSで見た誰かの投稿は、ちょっとお休みしているはずです。
これが、放下著(ほうげじゃく)の、いちばん小さな入り口だと、私は思いますね。

「今、ここ」に心を向けるという意味では、最近よく聞く「マインドフルネス」とも、入り口は似ています。
ただ、曹洞宗の坐禅は、「役に立つから坐る」のではなくて、「ただ坐る」ことそのものを大事にします。
どちらが偉いという話ではありません。皆さんの暮らしに馴染むほうから、始めてみたらいいのです。

「もう絶対に比べないぞ」と力まない

大人になってから身についた習性は、そう簡単には消えません。
私自身、いまだにSNSを開いて、心がざわっとする日があります。
だから「もう絶対に比べないぞ」と力むのは、たぶん長続きしないのです。

そうではなくて、ざわっとした瞬間に、

「あ、今わたし、また握りしめてるな」

と気付くだけでいい。
気付いたら、いったん手をひらいてみる。握っていた指の力を、ほんの少しだけゆるめてみる。

それで全部の「比べる心」が消えるわけではありません。
でも、握る力を「ゆるめる練習」を、何度も繰り返していくこと。
それが、放下著(ほうげじゃく)の、いちばん現実的な使い方なのではないかと、私は思っています。

増やすより、一個下ろすほうが、ずっと軽い。
これは、禅の教えが、何百年も前から、私たちに伝えてくれている知恵なのです。

最後に──ひとつ下ろすという、おみやげ

庭の草木に静かに水をやる手元。または机にスマホを伏せて置いた俯瞰のシルエット。一日の終わりに『ひとつ手を緩める』優しい所作を象徴。私たちは、目に見えないたくさんの「思い」を握りしめて、それで自分の心を、重くしてしまっています。

「もっと評価されたい」
「あの人に追いつかなきゃ」
「私はまだ足りない」

そんな思いをいったん、テーブルの上に置いてみる。
それだけで、ふっと肩が軽くなる瞬間が、きっと来るのです。

持ってるものを増やさないより、一個下ろすほうが、ずっと軽い。

このひとことだけ、今日のおみやげに持って帰っていただけたら、嬉しいです。

今夜、寝る前にスマホを置く瞬間でも、
明日の朝、コーヒーやお茶を淹れる30秒でも、
庭の草木にそっと水をやる時間でも、いいのです。
何か一つだけ、心の手を緩めてみてくださいね。

「ふだんの禅」では、これからも、皆さんの心にそっと寄り添うお話をお届けしていきます。
コメント欄に「私はこれを下ろしてみました」と一行残してくださっても、とても嬉しいです。

皆さんの毎日が、穏やかで、心豊かなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

合掌。