光明をたずねて ── 永平寺二祖 懐奘禅師さま 七百五十回大遠忌に向けて
道元禅師を生涯お慕い申し上げ、お側で仕え抜かれた永平寺二祖 懐奘(えじょう)禅師さま。その八十三年のご生涯を、いくつかの逸話とともに、たどってまいりたいと存じます。そして、令和十二年に厳修される七百五十回大遠忌をお迎えするにあたって、芳全寺の所信を申し述べさせていただきます。

道元禅師とのお出会い
二祖さまは、建久九年(一一九八)、京の都にお生まれになりました。藤原家の家筋ながらご出家の道を志され、二十一歳の時に比叡山にて菩薩戒を受けて比丘となられます。比叡山では止観の修禅と当時の仏教学を広く学ばれましたが、教学の上のみで真実に触れることに飽き足らず、「不立文字(ふりゅうもんじ)」の禅へと心を寄せてゆかれました。
その頃、お母さまから一つの言葉をいただかれます。
── 名利の学問のために学ぶのではない。世を渡る黒衣の僧として、背に笠を掛け、徒歩で歩んでゆきなさい。
二祖さまは、その言葉のとおり、比叡山を下り、笠を背に、遊行の旅に出られます。諸師を歴参されたのち、宋より道元禅師がご帰国されたとの報を受け、京に道元禅師を訪ねられました。当初は法戦を望まれましたが、ご対面のなかで禅師さまの境涯の深さに触れ、ついにご入門をお願い申し上げます。文暦元年(一二三四)冬、深草興聖寺にてご入門。後に「一毫(いちごう)、衆穴(しゅけつ)を穿つ」の因縁をめぐって大悟され、道元禅師さまより印可をいただかれました。
二十年の侍者として
嘉禎二年、二祖さまは興聖寺初代の首座となられます。これは、禅師さまから仏法を挙揚(こよう)する資格を授かったことの証でもありました。以後、道元禅師さまにお仕えになることおよそ二十年。ご病気で十数日お側を離れられた以外は、片時もお師匠さまから離れなかったと伝えられます。
お師匠さまの傍らで眠ることを願って
道元禅師ご遷化の後も、二祖さまは御真像を掲げ、日夜の礼拝を欠かされませんでした。病に伏された二祖さまは、徹通義介禅師さまに住持の座をお譲りになります。なお二祖さまから直接ご教導をいただかれたお一人に、後の太祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師さまがいらっしゃいます。
弘安三年(一二八〇)八月、二祖さまはご遷化なさいます。その御遺言には、ある願いがありました。
── 自らの墓塔は立てず、道元禅師さまの傍ら、侍者の位置に埋めてほしい。
『霊骨、遺命に任せて、之を納むる塔無し』── 亡くなってなお、侍者であろうとされたお姿。その法灯は今なお、両大本山に脈々と受け継がれております。

二祖さま 七百五十回大遠忌をお迎えする
「大遠忌(だいおんき)」とは、宗祖や祖師さまの五十回忌からのち、五十年に一度お勤めいたします特別なご法事です。直にお目にかかれない私たちが、改めてお祖師さまの遺徳を仰ぎ、お徳のもとにご縁を結び直させていただく、まことに尊い機会でございます。
二祖懐奘禅師さまの七百五十回大遠忌は、曹洞宗の宗門にとりまして半世紀に一度の大佛事。令和十一年・十二年の二年にわたって両大本山・全国の末寺・檀信徒が心を合わせ、お徳を仰いでまいります。中心の御本法は、令和十二年十月十八日より二十四日まで、大本山永平寺にて厳修される予定です。
二祖さまを仰ぐ、二年間
大遠忌に向けては、二祖さまのご事跡をお伝えする顕彰のお勤め、ゆかりの御霊跡をお参りする巡拝、そしてお山の大伽藍を末永くお伝えする保存・修復など、宗門挙げてのご事業が予定されております。お山にお登りになる御用、ご自坊でお勤めくださる御用、お一人お一人の場でお徳をお仰ぎいただける二年間となりますよう、ご準備が進められているところです。
芳全寺としての務め
二祖さまは、生涯ご自身を「お師匠さまの侍者」とお位置づけになり、お亡くなりになってからもなお、お師匠さまの傍らに眠ることをお願いになりました。一度お受けしたご恩を、生涯を懸けて、いいえ、命を超えてお返しになろうとされた、そのお姿。
私たち芳全寺もまた、宗門の大きなご縁のなかで、大本山永平寺をお支え申し上げる末寺の一員でございます。二祖さまの七百五十回大遠忌をお迎えするにあたり、芳全寺といたしましても、出来うる限りの協力をいたす所存であります。
合掌








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