道元禅師ってどんな人?③
悟りと帰国
曹洞宗を開いたお坊さん「道元禅師」についてまとめてみました。
前回までのお話
「他の者にさせたのでは自分の修行にならん今せずにいつするというのだ」と一喝した典座老師との出会いで修行の本質を悟った道元禅師は、その後宋国のお寺を巡る中で、正師となる如浄禅師と出会いました。高潔な禅者である如浄禅師に疑問や質問を全て投げかけ続け、また如浄禅師も道元禅師に親しく教えを説き明かしていた中で、得た教えとは何か?
坐禅中に・・・
ある日、道元禅師がいつものように早朝の坐禅をしていた時のことです。師である如浄禅師は坐禅中に居眠りをしていたある僧を厳しく叱り、
「坐禅は常に身心脱落でなくてはいけないのに、このように眠りこけてどうするというのだ!」
と一喝されました。この言葉を聞いた道元禅師は身も心も全ての囚われから解放され、行住坐臥(≒日常の立ち振舞全ての行いがそのまま仏の姿の表れ)であるということを深く悟られたのです。
その後道元禅師は、如浄禅師から印可証明(悟りを得て、歴代の仏祖の教えを余すことなく受け継いだという証明)を受けたのです。
宋国修行を終え、っいに帰国
帰国して3 年程京都の建仁寺におり、そこで坐禅の作法とその重要性をわかりやすく万人に説いた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を記されました。
やがて1230 年には深草の安養院に移られて、三年程過ごされました。この時期、『正法眼蔵・弁道話(しょうぼうげんぞう・べんどうわ)』を著し、お釈迦様以来伝えられた仏法の基本は坐禅であり、悟りを得るという目的を持っての坐禅ではなく、坐禅そのものが悟りの姿であるという『修証一如(しゅしょういちにょ)』の教えを示されました。
1223 年、道元禅師34 歳の時、京都の深草に最初の道場となる興聖寺を開き、のちに永平寺の二代住職となる懐奘(えじょう)禅師を弟子としました。しかし、道元禅師の台頭を良く思わない旧勢力からの圧力がかかり・・・
果たして圧力に負けず、道元禅師は教えを広めることはできるのか?次回につづく
まとめ
道元禅師とは#3
如浄禅師の下で悟りを得る
帰国し、万人に坐禅を広める
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