「不説過戒」大本山永平寺東京別院御征忌・法脈会[教授師]体験記
昨年の大本山永平寺御征忌での焼香師に引き続き、今年は大本山永平寺東京別院御征忌・法脈会での「教授師」のお役目を拝受させていただきました。 このような大きなお役目が二年連続で続くのは一体どうしたことなのか・・と戸惑いつつも、これも自分に課せられた一つの天命と覚悟を決めて取り組むしかないものでありました。
教授師というお役目
「教授師」とは、法脈会(授戒会)という、宗門における最高の儀式法要において、戒師様(今回は大本山永平寺貫主・不老閣大禅師様)の補佐導師として、お仕えするお役目の二師(教授師、引請師)の内の一人になります。
昨年の焼香師は一つの法要での導師のお勤めのみでありましたが、今回の二師のお勤めは御征忌・法脈会中(東京別院では三日間)のほぼ全ての法要に、それなりの立場で関わることとなりますので、なかなかに大変なお役目となりました。
まず、体調、体力にそれなりの堅調さが求められます。各法要中には、「お拝い」という、所謂五体投地型での礼拝の所作が頻繁に入ります。
多い場合には、一法要中に三十回を超えることもあり、一日だと軽く百回以上となります。膝や腰に不調があったのでは、なかなか務めきれなくなってしまいます。
そういう私は、脚力には比較的自信がある方でしたが、案の定、二日目には大腿部が筋肉痛になってしまいました。
また、広い本堂でマイクなしで朗声を響かせなくてはならない場面もありますので、喉の調子も気になる所です。 とにかく、代役のいないお役目なので、事前からの健康管理、体調、体力管理にはことのほか気を遣う必要がありました。

事前準備と本番
各種の法要の内容については、一般地方寺院ではまずやらない特殊な法要ばかりとなりますので、事前の学習と修練が必要になります。
「授戒会」の解説書を一から読み込み、二師の進退所作等についての情報を集めました。 また、東京別院には東京別院なりの本山作法というものがあり、参考本とは違っていたりしますので、直前での確認が必要となります。
そのほとんどの内容が、初めて体験する「ぶっつけ本番」的なものとなりますので、内心の緊張を隠して涼やかに演じるのはなかなか大変でありました。
法要の一座一座、肝を据え、落ち着いて務めきることに集中いたしました。
幸いにも、二師の侍者(サポート役)の方々に頼りになるベテランの方が多く、多方面に亘ってご援助を頂くことが出来、何とかそれなりに役目を終えることが出来ました。
誠にありがたいことと、心から感謝申し上げます。

法脈会(授戒会)とは
さて、肝心の話は法脈会(授戒会)の中身についてとなります。
法脈会とは、お釈迦様からの正伝の仏法の中で、私たち現世を生きる者がしっかりと守るべき特に大事な決まり事(戒律)の中の十六項目について、伝授する儀式会となります。
この十六項目の戒律のことを菩薩戒と言い、これを伝授されることで人は菩薩の位に入る、とされるのであります。
実は、曹洞宗では誰でも死んだ後の葬儀式において、略式とはなりますが、当儀式を行っております。
今回の東京別院での法脈会は、このお釈迦様から幾世にも亘って連綿と伝えられたこの仏法を、【死んだあとではなく、生ある内に】、曹洞宗の最高位であられる大禅師猊下から直接伝授される、という最高の法要となります。
正伝の仏法とのご縁、大禅師猊下とのご縁が結ばれる、という意味になります。

「不説過戒」というもの
今回、ご縁があってこのような有難い大法要において、「教授師」という大禅師猊下のサポート役をさせて頂く機会を得たことは、私の人生においても実に得難い、最高の時となりました。
改めて、当法要の中心テーマである、十六条の戒律(仏戒)というものについて、自己点検の良機ともなりました。
そこで、ここでは、その中の一つを取り上げてみたいと思います。
不説過戒とは
不説過戒とは、十六条の戒律の中にある十重禁戒という十の戒律の中の一つ、六番目に示されている重要な戒律になります。
簡単に言えば、「他者の過ちを責め立てない、あらさがしをしない」という意味になります。
私たちは日頃、えてして、他者の失敗をあげつらったり、自分の正しさを一方的におしつけたりしがちではないでしょうか。
正義感の強い人、常に完璧を求めてしまう人など、要注意のようですね。
正義も完璧もそれ自体を見れば「善」なのでしょうが、人と人との関係性においては、えてして緊張感、ギスギス感を生む要因にもなるものです。
常に他者を批判したり、理屈っぽく自分の正論を主張する人は、周りから好かれませんね。 こうなると、いろいろな物事がうまく運ばなくなったりして、何かと苦労するものです。
私も以前はこの傾向が強く出てしまうことがあり、職場の人間関係において、幾度も失敗したりしたものです。
百人いれば、百通りの正義、物差しというものがあり、それは微妙に一人ひとり違った基準だったりするものです。
要は、その物差しを振り回して他者を安易にジャッジすることは慎もう、他者にはその人なりの都合・成長のペースというものがあり、たとえそれが自分の基準から外れることであっても、必要以上に干渉すべきではない、という戒めとなります。

和合和睦という精神
大禅師猊下は今年の告諭において、永平寺二祖懐奘禅師さまのお言葉から「和合和睦」を示されました。
すべての人々は、仲良く、力を合わせて共に支え合おう、という精神です。
実はこれはすべての人にとって、人生の究極の目的、課題と言ってもよいくらいの「難題」ですね。
私たちは、実に些細なことで他者と言い争ったり、いがみ合ったりしがちです。 他者への誹謗中傷を趣味にしているのかな、というような方も見受けられます。
本当は皆、安らぎと幸せな未来を望んでいるはずなのに、感情のまま、逆の行動(後に自分が他者から責められる因となる)をしたりしています。
他者とは、自分とは違う価値判断をもった独自の人格です。
自分と他者とのそのような違いを越えて、仲良く、和合和睦していくことは、実はかなりのスキル、配慮が求められる事であり、それなりの努力が必要となります。 国と国との関係なども同様と言えるでしょうか。
「過ちは責められるべきだ」「指摘してあげることが愛だ」「不正は厳しく裁かれるべきだ」――当然に議論はあるでしょう。 これらは無論正論です。
しかし、正論も度を越しては、私たちが求めている「安らぎと幸せ」から遠ざかっていくのではないでしょうか。
自分の正義を他者に対して過度に振り回さないこと。 他者にも仏心があり、それを信じて待つこと。 常にリスペクトの気持ちで接すること。
少々の不義は許せる、こころの「ゆとり」「あそび」。
それらがスキルとして求められているように思います。
「不説過戒」――実に深い意味をもった戒めだと思います。
大禅師猊下が望んでいることは、誰もがこの戒めを守り、人と人とが和合和睦して生きていける、平和な世界の実現です。
一歩一歩、そこに近づくために、自分自身に出来ることから始めてみたいものですね。
「不説過戒」。 是非、柔らかな気持ちで他者に接していけますように。







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