道元禅師ってどんな人?④
前回までのお話では、道元禅師が「坐禅そのものが悟りである」という修証一如(しゅしょういちにょ)の教えを説き、京都・興聖寺を拠点に布教と弟子育成に励んでいたことをお伝えしました。
しかし、その教えが広まるにつれ、当時の旧仏教勢力、特に比叡山延暦寺からの圧力が強まり、道元禅師は大きな決断を迫られることになります。
今回は、道元禅師が京都を離れ、越前へと向かった理由、そして後に曹洞宗の大本山となる永平寺建立に至る歩みをご紹介します。
越前の地へ ― 静かな修行の道を求めて
京都での活動が次第に困難になっていく中、道元禅師は、中国で師事した如浄禅師の言葉を深く胸に刻んでいました。
「世俗の権力に近づかず、深い山の中で、少ない人数でもよいから、真実の仏の教えを絶やさぬようにしなさい」
この教えに従い、道元禅師は四十三歳のとき、弟子たちとともに越前(現在の福井県)へ移る決意を固めます。
当時、越前国の地頭であった波多野義重公は、道元禅師の教えに深く心酔し、禅師が修行に専念できる道場を整えたいと強く願っていました。

永平寺の建立 ― 純粋な禅の道場として
越前に入った道元禅師は、まず吉峰寺という古寺に仮寓し、その後、寛元二年(1244年)、波多野義重公の寄進により、傘松峰(さんしょうほう)に新たな寺院を建立します。
この寺は当初「大仏寺」と名付けられましたが、1246年6月15日、道元禅師四十七歳のとき、「吉祥山永平寺」と改められました。
この「永平」という名には、「永久の平和」という意味が込められ、仏法がもたらす永遠の安らぎと幸福を象徴しています。

立ち居振る舞いすべてが修行
永平寺において、道元禅師は次の教えを徹底されました。
「威儀即仏法、作法是宗旨」
(立ち居振る舞いそのものが仏法であり、作法こそが教えの根本である)
坐禅の時間だけでなく、食事、掃除、歩くこと、話すこと――
日常のあらゆる行いを修行と捉える厳格な規律が、ここ永平寺で確立されていきます。
永平寺の建立は、道元禅師が目指した純粋な禅の修行共同体を具現化し、その法灯を後世へと伝えるための、揺るぎない基盤を築くという、極めて重要な意味を持っていました。

おわりに
自らの地位や安住を求めることなく、ただ真実の仏法を守り、修行僧と人々を教化し続けた道元禅師。
しかし、その晩年には病が忍び寄り、再び大きな転機を迎えることになります。
次回は、道元禅師の晩年と、その最期に込められた教えについてお話しします。







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